芽吹神社 福徳神社
福徳神社と富くじ

福徳神社
と富くじ

福徳神社と富くじの歴史

▶︎富札 福徳神社 日本銀行金融研究所貨幣博物館所蔵 富札と錦絵 ◀︎錦絵 当世名物鹿子 神社仏閣の一乃富 日本銀行金融研究所貨幣博物館所蔵

 福徳神社(芽吹稲荷)は、たびたび幕府より勧化を許可されています。
文政5年8月・天保6年5月・天保10年12月・弘化3年12月・嘉永4年2月・安政5年に、火事で類焼した社殿の造営を願い出たところ「江戸中勧化を差許されたり、是を以ても幕府の尊信浅からざるを知るべきなり」とあります。この勧化は、少なくとも文政・天保期の場合は、幕府公認の富くじ興行「御免富」でした。

錦絵 ◀︎錦絵 萬々両札のつき留 日本銀行金融研究所貨幣博物館所蔵

 富くじは無尽・頼母子講が変形し発達したものです。私的な富くじ興行は早くから行なわれており、幕府は元禄五年申(1692)5月10日付で「とみつき講」「百人講」を禁じる触れを出しています。以来、たびたび富突禁令が沙だれているところから、江戸期を通じて、三都を始め各地で広く行なわれたことがわかります。

 幕府はこのように私的富突を規制する一方で、享保年間には、由緒ある寺社に限り、堂舎修復費捻出のための富くじ興行を公認するようになり、これを「御免富」と称しました。

 富突が盛期を迎えるのは田沼意次が老中となる安永2年(1772)以降で、谷中感応寺・目黒不動・湯島天神の「江戸三富」のは早朝から群集が押し寄せたということです。

 文政から天保期までが江戸富突の最盛期であり、福徳稲荷の富突興行もここに集中していたと思われます。当時の富突場には江戸三富のほかに、護国寺・椙森稲荷・本所回向院・芝神明・茅場町薬師・白旗稲荷・浅草寺奥山・下谷六阿弥陀などがありました。

 中でも富突きに”福徳”とは縁起がよく、ことに当社福徳稲荷の場合は、この社号「福徳」に加えて、秀忠により江戸城から合祀された弁財天が福財神として庶民の注目を集め、人気を博したと推察されます。

 文政末頃の出版と思われる『江戸大富集』では、福徳稲荷興行の富くじは、当たりくじの最高額が300両であり、これは年4回興行15口の中では、山王御神社・嵯峨御社・南山科御社・根津御社と同等の最高額となっています。

 文政4年の御免富許可基準評議からすれば、福徳稲荷は確かに「御由緒厚き寺社」として扱われています。ここにも将軍家康・秀忠とも所縁が生きていたと言えるでしょう。

また、自社興行のほかに文政12年(1829)から足利金剛山鑁阿寺(現栃木県足利市)堂舎修復のためのご免富が興行されました。

▶︎富札 足利鑁阿寺 福徳神社 日本銀行金融研究所貨幣博物館所蔵 富札と◀︎鑁阿寺 ◀︎鑁阿寺 本堂画像

興行をおこなった足利金剛山鑁阿寺HPリンク http://www.ashikaga-bannaji.org/

富くじの画像資料提供いただいた日本橋本石町 日本銀行金融研究所貨幣博物館のHPはこちら。
 日本銀行金融研究所貨幣博物館HPリンク http://www.imes.boj.or.jp/cm/