芽吹神社 福徳神社
御由緒

御由緒

▲当社蔵 五風貞定虎「豊年満作之図」

 当社の創祀された時は明らかではありませんが、当社に伝わる略記によると、貞観年間(清和天皇・589~876年)には既に鎮座していたようです。

 武蔵野の村落である福徳村の稲荷神社として祀られ、その地名をとって社号としました。

 その鎮座する社地は広く、社殿も宏壮で、社の四隣は森林、あるいは田畑に囲まれ、農家が散在する片田舎でした。土地の人は神社の森を稲荷の森、その森の一端に建てられていた里程標(石造一里塚)を「稲荷の一里塚」と呼び親しんでいました。

後の明暦3年酉年(1657)正月8日の大地震により、一里塚は崩壊してしまいました。

当時の人々は、この散乱した碑石の残存した破片を集め保存したと考えられています。

その碑名の移しは次の通りです。

表 宮戸川邊り宇賀の池上に
  立る一里塚より此福徳村
  稲荷森塚迄一理

裏 貞観元年卯年
  三つき吉祥日

そもそも当社は、元来武将の信仰があつく、源義家朝臣(みなもとのよしいえあそん・1039~1106年)が深く崇敬されていたことが記されていた、と伝わっています。江戸幕府以前には太田道灌公を合祀し、その兜・矢・鏃などが奉納されたと伝わっています。

 天正18年(1590)8月1日に入府した徳川家康公は、同じ8月に初めて参詣され、その後参詣は数度に及びました。

芽吹神社 御由緒

 さらに、二代将軍秀忠公は慶長19年(1614)正月八日に参詣し、「福徳とはまことにめでたい神号である」と賞賛されました。この時、当社古例の椚の皮付きの鳥居に、春の若芽の萌え出でたのをご覧になり、当社の別名を「芽吹神社」とされました。
元和五年(1619)2月に御城内の弁天宮を当神社に合祀するにあたり、将軍自ら神霊を納められ、大和錦の幌を奉納され、さらに「社地縄張を三百三十坪」と定められました。

御祭神

主祭神

倉稲魂命〈うかのみたまのみこと〉
… 五穀主宰の神。日本書紀では倉稲魂命、古事記では宇迦之御魂神と表記する。

相殿

天穂日命〈あめのほひのみこと〉
 … 天孫降臨に先立ち大国主命と和す。

少名彦名命〈すくなひこなのみこと〉
 … 医薬・温泉・酒造の神。武将の崇敬あつし。

事代主命〈ことしろぬしのみこと〉
 …大国主命の子物事よく知る神。国土経営に努む。

三穂津媛命〈みほつひめのみこと〉

江戸時代前後に合祀

太田道灌〈おおたどうかん〉
 … 戦国時代の武将。江戸城を築城。

弁財天〈べんざいてん〉
 … インドの神。江戸城より勧請する。

徳川家康〈とくがわいえやす〉
 … 東照大権現。徳川幕府を江戸に開く。