芽吹神社 福徳神社
       
御由緒    

御由緒

御祭神

主祭神

倉稲魂命〈うかのみたまのみこと〉
五穀主宰の神。日本書紀では倉稲魂命、古事記では宇迦之御魂神と表記する。

相殿

天穂日命〈あめのほひのみこと〉

大己貴命〈おおなむちのみこと・大国主神とも。大黒様として知られる〉

少名彦名命〈すくなひこなのみこと・えびす様とも。医薬の神として知られる〉

事代主命〈ことしろぬしのみこと〉

三穂津媛命〈みほつひめのみこと〉

江戸時代前後に合祀

太田道灌〈おおたどうかん〉

弁財天〈べんざいてん・インド由来の神・江戸城内より勧請したと伝わる〉

徳川家康〈とくがわいえやす・東照大権現とも。本多忠勝の命により合祀されたと伝わる〉

▲当社蔵 五風貞定虎「豊年満作之図」

御由緒

 当社の創祀された時は明らかではありませんが、古くからの言い伝えによると貞観年間(清和天皇・859~876年)には既に鎮座していたと云われています。

 鎮座地の日本橋室町二丁目付近は、往古は武蔵国豊島郡福徳村(あるいは豊島郡野口村福徳)と伝えられ、農漁家の点在する片田舎だったそうです。

 古くは稲荷の祠と呼ばれていましたが、後にその村名をとって「福徳稲荷」と呼ばれました。

 また土地の人は神社の森を「稲荷の森」、その森の一端に建てられていた里程標(石造一里塚)を「稲荷の一里塚」と呼び親しんでいました。

 後の明暦3年(1657)正月8日の大地震により、一里塚は崩壊してしまいました。

 当時の人々は、この石碑の破片を集め保存したと考えられています。

その碑名の写しは次の通りです。

表 宮戸川邊り宇賀の池上に
  立る一里塚より此福徳村
  稲荷森塚迄一里

裏 貞観元年卯年
  三つき吉祥日

・武将の崇敬

 江戸時代の社家であった森村氏の言い伝えによると、源義家公、太田道灌公など武将の崇敬も厚く、後に道灌公は相殿に合祀されました。

 徳川家康公は天正18年(1590)8月に初めて当社に参詣され、その後参詣は数度に及んだといいます。

 後に、本田忠勝が関ヶ原の戦いの功績により家康公より賜った紙入れを当社に奉納した際、これを東照宮の神霊として祀るように命じ、以来相殿に奉斎されています。

・「芽吹稲荷」号の由緒

 さらに、二代将軍秀忠公は慶長19年(1614)正月28日に参詣し、「福徳とはまことにめでたい神号である」と称賛されました。この時、当社古例の椚(くぬぎ)の皮付き鳥居に、春の若芽の萌え出でたのをご覧になり、当社の別名を「芽吹稲荷」と名付けられました。

 元和5年(1619)2月に御城内の弁天宮を当神社に合祀するにあたり、将軍自ら神霊を納められ、大和錦の幌を奉納され、さらに社地を333坪余と定められました。

・氏子地域と信仰

 当初は近隣一帯が田園であった福徳の地も江戸に幕府が開かれてより商家が軒を並べる繁華街となり、この地も伊勢町・瀬戸物町の二つの町名と変り、その付近を「浮世小路(うきよしょうじ)」と称されるようになりました。その二百数十年の間に数度にわたる火災や境内地一部の上地などにより維新後に至っては40余坪ほどになってしまいました。とは言え、町内の崇敬は厚く、天保の改革により存続の危機に見舞われた際も、一致して再興に力を尽くしました。

・明治以降の変遷

 明治7年(1847)8月9日、政府により当地の由緒・信仰を認められ「村社」の社格を定められ、社号が福徳稲荷から福徳神社へと変わりました。以後、瀬戸物町を氏子とし、室町・本町・伊勢町・安針町その他に崇敬者を擁し、祭典・営繕維持に尽力しました。

大正期の福徳神社
 『東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖. 第2輯』国立国会図書館蔵

 関東大震災後の区画整理により日本橋区室町2丁目4番地に遷座、戦災に遭いながらも、昭和48(1973)年1月に中央区日本橋室町2丁目4番14号に遷座し平成を迎えました。

ビルの2階にあった社殿

 この間、日本橋界隈は商家の街並みからビル街へと変遷するなかで、当社もその大きな波を避けること適わず、ビルの屋上へと移転しながらも維持されていきました。

再開発により移転中の社殿

 平成18年(2006)日本橋室町の再開発による建て替えに伴い、4度の遷座。平成26年(2014)に現在の新社殿が竣工し、江戸時代より続く「日本橋のお稲荷様」として日本橋に行き交う多くの人々の崇敬を集めています。

現在の社殿・境内